昭和43年10月14日 朝の御理解
御理解 第52節
「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」
「少しも驚くことはならんぞ。」と「微動だにしてはならんぞ」と、言う事ですね「心を動かしてはならんぞ」とどうでも信心のおかげをもって、驚かんですむ信心。どんな場合でも、おう、微動だもせんですむ信心。どんな場合でも「おかげ」とこう言え又それがそう感じられれる信心。「信心しよってから、どうして、こげな事になっとじゃろうか。」と言う様な事でもいけない。うんもうびっくり仰天して、目先が真っ暗になってしまう様な事であっちゃ尚でけん。
ですから結局信心とは、いよいよ神様の心を、いよいよ深く広く分からせてもろうて、それを本当に、心の中に思い込ませて貰うて、「神様のご都合に、違いはない」。神様のおかげおかげの元になる事をですね信じきらせて貰う、まあいうなら体験というか、信心修行をしっかり積んでおかなければならない。次の53節の前ん所に「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多い」と仰るので御座いますから、私共が目の前に起き、起きておる事。
その事がですねどの様な事であっても、それは氷山の一角であって、そりゃ困った事の様に見えたり、難儀な事の様に見えたり、思っておる。又は私共がおかげと思っておる事でもそうである。「おかげ頂いた」と思いよるけれども、思った所は、氷山の一角である。まぁだその目に見えない、根の所におかげは、大きなおかげがあるのです。そりゃ目の前に目に見て感じる所の、そりゃ困った事の様な事であってもです、ね実をいうたら神愛。根はおかげです。本当に、氷山の一角なんです。
ですから、そこのところを信じさせて貰える信心、目の前ここに起きておる事は」「そりゃ、困ったことだ。」と言うておる様であれ思いますけれども、そりゃ困ったことでは決してない。もうどういう突発的な事が起こってきても、決してそれは驚くこと、ことではない。夕べの、御理解の中にもね、世間、昨日私、お道の金光教報というね教会に本部から毎月送って参ります本ですけれども。
それにこの「金光教の、助かりについて」と、言う様な講題で座談会があっておる模様を、うん記入しちゃるものでした。その中にあのうこりゃ、金光教の信心に限らんとですけれども、その一般の人達はですね、信心をする者をその弱い者。心の弱い人。「心の弱い人が信心をするものであって、強い人は信心をしない。」と一般的なその常識になっておると。それを「そんなもんじゃないんだけれども。」と言う様な、言う事が書いてあった。信心するものは弱い者。信心する者はまあいうなら力がない者。
けれども私はそれを読ませて頂きながら、「それは否定する事じゃないなぁ。本当にほんにそりゃそうだ。」と私思います、矢張り信心する者はやっぱ弱い、こりゃもう私共なんかもう子供ん時から、自分で思いよった。もう「自分の、信心のおかげによらなければ、成功出来んぞ。」と思いよった、力はないし頭は悪いし、やっぱ子供ながらそれが分かった。「もう神様のおかげによらなければ、自分は助かられんな。」と言った様なその思いが、是は長ずるに従って強なって来た。
皆さん方達が御神縁を頂かれるでも、そうじゃなかったじゃろうかと皆さんがもっとなら強い心を持っておったら神様なんか縋らんで、自分でやって行く。自分の自力でどういう中からでも、そこからファイトを燃やしてそのやっていくと言うておられたかも知れません。けれどもある場合には「溺れる者はわらを掴む。」と言った様な弱さ。人間のね。そういう弱い心が確かに入信の動機になったのじゃなかろうかと。
「はぁ金光様のご信心の教えが素晴らしいから。」と言う様な事で、その入って来る人が、非常に少ない様にです。やっぱり自分の弱さというものを、もうさらけ出しておる姿が入信。そう云う事を一般では、信心する者はその弱い者が信心をするもんだと。力を持っておる、勇気のある者は神様仏様なんて言わん。先日私あの秋永先生の所に行った時に、二階の神様のご神前に。
こうどっか、卸もとから送って来た運票なんち言うか、こう成功するしないの、二つに分けて、こういう心掛けの人がね成功しない。こういう心掛けの人が成功する。と言った様な事をずうっとこう、十何カ条ぐらい書いて、書いた物を送って来ておった。その中にですね、神仏にねその、「神仏にね、大きな願いをかける者は成功しない。」とこう、言う様な事が書いてあった。
他の事でも、実に(?)事出した。成程そういう心掛けになりゃ、成功するだろう。と思う様な事がずうっと書いてある中にです、神様やら仏様やらにですね、あっ無理な願い、無理の願いを、無理な願いをする者はですね、その成功しないと書いてある、所がならお互いの事を思うて見るとですよね、言うならば無理な事でもお願いしなければならない様な事から、入信してきちゃぁるですもんね。
そして矢張り何時もご無理ばっかり、お願いしておるのですから「金光様のご信心をする者は、成功しない。」と云う事になる訳ですけれど。ここんところをですね、私はあの少し検討しなきゃいけない。私も昨日その本を読ませて頂きながら、神仏に「神や仏や、と言うような人は人間が弱いんだ」と。強い者は神仏なんかにゃぁ縋らない。成程そういう考え方であれば.
本当に神様に無理を願う者は成功しない、と云う事になるでしょうね。所が金光様のご信心を頂きよると成程初めは本当にわらをも掴む心。又は人間の知恵力ではどうにも出来ない事があって、ここんところを何とか、神様のおかげによって、助けて頂こう。と言うて御神縁を頂いた。そしてお話を頂けば頂く程、障子一重がままならぬ人の身である。いわゆる人間の実相というかね、実態というものを見極めて来る様になる。
自分というものを、愈々分からして貰うて、確かに「障子一重がままならぬ人の身である」と言うね、所謂我無力であると云う事の、事実に直面する訳です。そこからですね愈々本当に弱い者になってしまう訳ですね。弱い者というよりも、弱いという力が無い、私だという無力状態です。何にも出来ないのが私共だと。それを信心のない間は、是も自分で、あれも自分で出来るんだと、こう思い思うておった。
だから信心なんかする奴は弱い人間だと、言う風にまぁ評しする訳です。けども実際私も成程そうだとこう思う。そしていよいよ信心が本当に分かって行けば行く程に、言わば自分の力がない事が分って来る。「障子一重がままならぬ人の身。」であるという事が分って来る。そりゃそこからです、そこから縋らなければおられないもの、そこから縋らして貰なければ、おられないものが生まれて来る。
所謂お縋りの生活同時に任せる生活。ですから信心のない人から見たら実に無気力な状態に見えるでしょうと思います。自分本当に自分には何んにも出来ない。所がですそのどう言う事に成って来るかというと、神様のおかげで事が運んで行き、おかげに成って行く訳ですそして私共がですね、いわゆる私共の行くてには困った事もなからなければ、難儀な事もない怖い事など等は尚更、と言う所まで突き止めて行けれる。
「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」である。信心がない者はそこまで行ききらん。矢張りそこは幽霊は幽霊。怖いものは怖いもの。困った事は、困った事にしてしまう。そうでしょうが。難儀な問題。難儀な問題にしてしまう。それが信心のない者の姿である。私共はその難儀なら難儀という、正体を突き止め、怖いと思うておった所を突き止めて見ると、なんだ是は幽霊じゃなかったんだ。
怖いものじゃなかったんだ。「こういう、枯れ尾花であった。」という正体。私共がそこんところを、突き止めて行くと、是は神愛であった。と分からせて貰う。そこで、おかげであった。と分からせて貰う。ですから信心させて頂く者には、怖いものがない訳でしょうが。怖い困る、怖い事もなからなければ困ったというならば、悲鳴をあげねばならい様な事は、絶対にない。
その側まで行って見る事が、信心なんだ。困ったというその、実態を突き止める事が信心。怖いと思うておった事を、突き止める事が信心なんだ。突き止めて見たら、そこにあったものは神愛だけであると、でそこで、どの様な事が起こって来ても驚かなんで済む、そこんところを分からせて貰う、繰り返し体験させて頂く事から、この世に怖いものは無い、この世に困った事は無い。
神愛の道あふれた私共の行くてにはものが中にあるのであり、それだけなのだと言う事が分かって来るとこの弱い者はもういよいよ、強い者がにならなければならない。強い者信心がなしに強がりを言うておる、言っとんのは強がりの様なもんです。実際は何にも出来ん。信心するもは、手を洗うておってもです、いよいよん時には、やっぱり、驚いておる。いよいよん時には困った、困ったと言うておる。
私共は矢張りそこまで信心を、こう追及していかなければならない。私共の行くてに困った事はない。怖い事はない。困ったと思う様な事は、私共に力を与えて下さろうとする、神様の働き。怖いと思うておったものは、私共に、本当の度胸を与えて下さろうとする神様の働き。であったと分からせて貰う。そこに私共は驚かんですむ信心がでける訳です。悔やまんですむ、信心がでけるのです。
そこで私はこの52節をですね、まぁそう言う風に説明させて頂いたんですけれども、そのどうでもですね、ここんところのおかげを頂いて頂かにゃならんと思うんです。皆さんに、是は「信心する者は驚いてはならん。これから後、どの様な大きな事が起こって来ても、出来て来ても、少しも驚いてはならんぞ。」と、こう仰る事は、信心させて頂く者は、是から先、どの様な事があっても、慌ててはならん、悔やんじゃならん。是はおかげの受けられない状態の心というものを、出してはならない。と云う事。
昨日、北野の秋山さんが、息子達が、二人でお参りさせて頂いた。もうそれこそ長々、長々とこまごましい、もういっぱいいろんな、思いのたけを書いた手紙を私にことづけ。皆が一生懸命、信心修行をして貰うておる。その中に先日久留米の三橋先生が、見舞いに来てお話を頂く中に、私に親先生が、こう言う事をことづけて下さった。「あんたお見舞いに行くなら、秋山さんに言うといて下さい。
お徳を頂く機会っていうのは、そう、滅多にあるもんじゃないよって。だからこのチャンスを逃さんごとせよ。」と云う事を頂いたが、合楽に通わせて頂いて、もう、本当に、お徳を頂く為には、というて、こういう沢山な、御教えを頂いて来たが、果たして私の今の現在の生き方で、お徳を受けさせて頂けれる状態であるだろうか。と。言う事をいうなら、考え続けておる。というのである。
お徳を受けるという機会、チャンスというのは滅多にない。確かにそうです。言うならば悔まにゃおれない、又は驚かなければ居られない様な事に直面しても、悔やまんですむ自分。驚かんですむ自分。むしろそこに詫びたり御礼を申し上げたりする心がある。皆さん大祭前で一生懸命、御信心修行がでけておられると思うと、いわば寝ちゃぁおられんような気がするけれどもせめて寝てから出来る修行をあれこれと考えさせて頂いて、その修行に取り組んでおると、まぁ別に痛い痒いがある訳だから。
休ませて頂いておるだけで御座いますから、それならテレビを見るのは唯一の楽しみぐらいな事。ところがそのテレビも最近は、修行と思うて見らずにおりますというて書いてある。私はそれを聞かせて貰ってですね、本当に私共が修行返って寝ておるもんの方が修行が出来よる。ちいう感じがするんです。もうその事に焦点を置いて考えているからですね。ほんな事信心しよってから、どうして是だけ怪我せにゃだろうか。
そういうものが更々感じられない手紙でしたね。ふんさすが一生懸命信心の修行をしておる。おかげを頂いておると、私は思わせて頂いて御礼を申させて貰った事で御座います。驚いてみなければ困ってもみな。成程こういう生き方ならば、秋山さんお徳が受けられるぞ。と言うてすぐ返事を書いてやりたい様な思いが致しましたけれども、「これで良いであろうか。これで良いであろうか。」
と思うておる事が、有難い事ですから、言うてはやりませんでしたけれどもです。もっともっと深い所に触れて行く事が、有難いですから。手紙に書いておる、秋山さんの、今の状態なら、お徳が受けられる。ですからほんとにお徳を受けるチャンスっていうのは、何時もない。唯そこんところをしだこだで、おかげ受けて行っただけでは、おかげだけ。徳は受けられん力は受けられん。
やっぱりなんかあったたんびに驚かなならん。だからそこん所をしっかり頂いて、あの時にお徳を頂いた。あの時に力を頂いたというのであるから、驚かなければならん様な事がはぁ是でまた、ひと徳受けられるぞ。これでまた力が受けられるぞ。と言った様な、言わばファイトが湧いて来る位なもんですよね。おどろかねばならん様な事が起こって来ても。だからそこまでお互いが信心を進めさせて貰わなければならない。
それでなぜそう言う様な心の状態というものをですね、作って行かなければならないか。何故そういうおどろかんどの様な場合でも、おどろかんで済む様な心の状態をですね、鍛えていかなければ、ならないかと云う事を、今日は大体聞いて貰う為に今のお話をしたんです。私只今ご神前に出らしてもらってからね、頂く事は「運慶」神様の心として「運慶」という字で頂くんです。
あの昔運慶という大変名人の彫刻家がおりましたですね。あれは奈良朝でしたか。「運慶」運ぶ慶びと書いてある。慶は、慶応の慶「よろこぶ」というね。運慶と言う人。その運慶と言う事を頂くんです。はぁこれは神様のね、是は神様の心なのだ。と言う訳、運ぶ事の喜び。例えばね人間氏子がです、段々だんだん、幸せになっていく。段々段々幸せの道。たどっていく。
そういう道付けをしてやる事に、神様はねその事だけにいうならば、思いを掛けて御座るとですよ、この神様という神様は。喜ぶ氏子が喜ぶその喜ぶ事を運んでやる事に、一生懸命の神様なんですこの神様は。私共が本当にそれこそ夢にも思わなかった様な、おかげが展開してくる。夢にも思わなかった様なおかげに段々おかげになっていくという、そういうおかげを運んで下さる為に神様は一生懸命なんですよ。
にも関わらずその神様の、その喜びを運んで下さる働きをですね、私共がにぶらせてしまう。いやそこにストップを命じるにです、神様の働きを留めてしまう、と言う様な事があってはならないから。今日52節の所を、私共が頂いとかなければならない、と云う事なんです。折角神様がです、喜びを運んで下さる事を楽しみに、一生懸命私共の為に働いて下さっておる、その働きをです、余儀なくそれを止めなければならない。
その喜びを運ぶ事が、出来ない事にしてしまうのは、私共人間なんです。ですからここに、52節にありますように、それはどういう時にそれが、そういう神様の働きが留まるかというと、例えば私共が、おかげをおかげと分からずに不平を言う。不足を言う。おどろいたり慌てたりしておるところから、おかげを運ばれる働きというものが、めぐったり無くなったりする訳なんですよ。
ですからどうでもここんところの、どの様な事があっても、驚かんで済むだけの信心度胸とですね、信心の力というものを、頂いておかねければならんか、といういかに信心修行によって、それを体得しとかなければならんか、と言う事が分かるでしょうが。そして私は、この事に付いて又お伺いさせて貰った。それを頂いたから神様その喜びを運んで下さる事の為にですね。
どういう心の状態にならせて頂いたら、神様が愈々その喜びを運んで下さる様な、おかげに成るのでしょうか。と言う事をお伺いさせて頂いた。神様も喜びいっぱい楽しみ一杯でです、氏子が幸せになって行く事の、事を道を付けて下さる、運んで下さる、喜びでいっぱいで働いて御座るのを、それをスッーと私共が切ってしまう様な、断念させる様な働きをしてしまう。それが是52節なん。
だからそういう意味で、52節の御理解は有難く自分のものにさせて頂く事の、信心修行をしっかりしとかなきゃならない。の事を神様にお伺いさせて頂きましたらねこの大きなこん木にねあのへちまがね、へちまがこう巻き付いてからいっぱい。こうあのしこっておる所を頂いた。そしてそのへちまがねブラーッとこう下がっている所を、頂くんです。皆さんどう云う事だと思うんですか是なんです。
神様がねいよいよ私共の、もうそれこそ夢にも思わない様な、おかげにですね、本当に信心ちゃ有難いものだ。信心のおかげでこの様なおかげを頂いてと、喜びの中に浸らせて浸りどうしに浸っておれれる様な、おかげを頂かせて頂く為には、私共がそのへちまの様な状態にならなきゃいけん。根は葉はどう言う事になっていますか。それこそその大きな木にもうそれこそしがみついて離れん。
という状態でしょうが。いうもう神様なしには生きられな。という思い込みなんです。もう信心によらなければ人間の幸せはありえないのだと。それには先ほど、私が言う「障子一重がままならぬ人の身。」であるという「我、わが無力」であると言う事を、いよいよ分からせて貰うて。此方この神様にお縋りするより他にないんだ。という一心のお縋りよる神様ご迷惑でもあろうけれども。
しがみついた上にもしがみついてゆく、いわばへちまのかずらの様なもんなんだ。そういう例えば一生懸命のものでありながらですね、へちまがブラッーと下がっておるでしょう。へちまはもうそれこそもうそれこ、へのかっぱじゃないですけれども、ね。へちまというのはねもうそれこそブラッーと下がっておるでしょうが。どこにしがみつくっていうのがないでしょうが。
葉は根はつるはしがみついておっても、へちまそのものはブラッーと下がっておる。ここんところがあいまっていかなきゃいけん。「神様なしには生きられない。」というしがみついていく絶対のものとです。よろけんブラッーと下がっておると言う事は、どう言う事かというとこういう道を開いて下さい。こうあらせて下さい。」というもんじゃない。いわゆるおかげはブラッーとしとる。
もうそれこそどうでもよい。という感じなんです。そこで私が言うのはですね、このへちまのこのつるこそが信心なんだ。私が言うでしょ。おかげを求めず信心を求めてって。 それなんです、信心を分からせて頂くと、言う事だけが有難い。おかげはもうあなたに任せてある。ブラッーと下がった言わばへちまがです、もうそれこそ総てに任せきっておる姿なんです。
是が「運慶」です神様がおかげを運んで下さる、喜びを運んで下さる神様の働きを十全にする。神様の働きを十二分にお働きを頂けれる事の為に、私共がこのへちまの様な、つるの様な状態、へちまがブラッーと下がっておる様な状態に、私共がならせて頂く所まで、信心を頂かにゃぁへちまがこうあらないけん。こうあの枝にぶらさが下がりしがみつく、この枝にしがみつくちいう事なんでしょうが。
なったが最後そのそれこそもう成り行きそのものを、そのままにですブラッーと下がっておる事なんです。そこで私は今日その事をですねこの教典によって、あのうどう教祖様が説明して下さるじゃろうか。と思うて開いてみたらです、結局あのう天地書附でした。頂いたのが。「生神金光大神、天地金乃神一心に願え」ね。一心に願うと云う事が、しがみついておる事です。
「おかげが和賀心にある」というのがブラッーとしておる事です。「和賀心」。和らぎ賀ぶ心。この和らぎ喜ぶ心。もういわゆるあなたに任せきった姿なんです。あなたに任せきった姿。成程天地書附の通りなんです。「生神金光大神、天地金乃神一心に願う」と言う所が、ね、もう、あなたなしには、あなたにより、外縋る頼む方はありません。というのがこの一心。
一心に頼むのだそしておかげは和賀心にあるのである。どうぞああして下さい。こうして下さいというのじゃない。「おかげは和賀心にあるのだ。」ね。ここんところを、皆さんに聞いて頂く為に、52節を前に、まぁ色々と説かせて頂いたんですね。何故驚いてはならないか。何故、悔やんじゃいけないか、「信心する者は、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。知ったおかげより、知らぬおかげの方が多い。」
と言う事を信じて「目の前には、困った事の様に見えておるけれども、その側まで行ったら、それを追求していったら、そこにあるものは、神愛だけであった。」と、「怖いものは世の中にはないのだと。信心させて頂く者の行くてには、困った事も難儀なこともないんだ。」というひとつ大きな悟りを開かせて貰える所まで。信心を進めていかなきゃならない。そして天地書附をそのままです一心に縋る。おかげはこげんしたからあげんしたからじゃない。
おかげはもうわが心に頂けれるおかげでなからなければ、本当のおかげじゃない。「わが心に頂けれる、おかげでなからなければ、神様が喜んで運んで下さるおかげではない。」と言う事。神様が喜んで運んで下さるおかげに触れたい。そういうおかげを頂きたい。それには先ず、私共どの様な場合でも、それこそ微動だもせんで済おかげ、迷わんで済おかげ、よろめかんですむ、信心をしっかり頂いておかなければならん。と言う事が分かるですね。
どうぞ。